ネット依存で苦しんだ人なら、スマホを持たない著名人を調べ、ガラケーに変えようとするための後押しにしたことがあると思います。
あの有名人が持ってないなら、私もスマホをやめよう!とした人もいるかもしれません。
私は映画監督のクリストファーノーランがメルアドを持たないと知ってから、彼の映画に興味が沸きました。
SF映画「インセプション」と戦争映画「ダンケルク」を観たことがあります。
最近、最新作が出ると知り、今日3/29が公開日だったのでイオンモールで観てきました。
原子爆弾を開発したオッペンハイマーの人生をテーマにした映画でしたが、三時間近くにも関わらずそこまで長く感じませんでした。
つまり、全体的によかったということです。
以下、ネタバレが含むかもしれませんので、気をつけてください。
物語の中でこんなセリフがありました。
「君のためではない。我々のためだ」
今日はこのセリフを私の人生に重ねて、解釈して見ようと思います。
私がこのセリフで感じたことは、たしかにそうだよなということです。
例えば出産と葬式はその代表例です。
出産は親が勝手にするものであり、人は自分のために生まれてくることはできません。また、葬式は死んだ人のためじゃなく、生きている人のためのものです。
生き残った人が感情に整理をして、また生きていくためにするものです。
他には、この時期だと新人歓迎会や送別会なんかもそうです。
こうした宴会は本人の意志をあまり考慮せず、周りが勝手にやって、自分たちの心理面に整理や区切りをつけるためのものでしょう。
まさに「我々のために」やるのです。
映画を観て、この世界はもしかしたら、自分のためじゃなく「周りの人間が望む限りでの自分」を求められている面の方が強い気がしてきました。
人は自分を気持ちよくさせてくれる限りでの他人を求めているということです。
周囲の雰囲気を壊さず、不快にしない人。
自分に希望や前向きな気持ちを与えてくれる人。
自分がありたい方向に自分を向かわせてくれるような人。
例えば、私がこのブログで好き勝手にネガティブなことを書くと反応がとても悪くなります。
ほかにも、知り合いにネガティブな連絡をするとリアクションが返ってきませんが、建設的な連絡をすると返事が返ってきます。
ただし、人間は身近な人が自分より幸福の次元が上がろうとすると、妬んだり引き戻そうとする所もありますので「我々のために」その人を幸せな方向に向かわせないように振る舞うことがあります。
例えば、安定して気持ちよい集団や環境があったとします・・・モテない人同士のグループとしましょう。
そのメンバーの一人に恋人ができたら、そのグループの安定は崩れます。
これは「君のためではなく、我々のためにあるという」ネガティブパターンに当てはまります。
今日映画を観て、私は自分のために生きているのではなく、ポジティブな面でも、ネガティブな面でも他人のために存在しているだけなのかという思いが沸きました。
ポジティブな方向に行きたい人は、私にポジティブな反応を求め、ネガティブな方向に行きたい人はネガティブな反応を私に求める。
このブログを読んでいる読者が、ポジティブな方向に行きたい人ならば、私がブログで前向きな表現をすることを望んでいるはずです。
依存症を治して幸せな人生を築いていきたい人は、私のポジティブな表現に何らかの影響を受けて、自分もまたそうして生きていきたいのです。
ここで疑問が沸きます。
私という人間の言葉や行動が、他人が望む限りでの振る舞いでしかないなら、私は一体何者なのでしょうか?
私の自由や個性とは何でしょうか?
ポジティブな方向に行きたい人にとっては、私がポジティブで前向きな生き方をする限りで、私は存在する。
ネガティブな方向はその逆で、ネガティブな自分として存在する。
しかし、人は基本的に前向きな存在です。人間の脳はおめでたい作りになっていて、うつ病でもない限り人間は前向きで、明日に希望を持っています。
具体的には、もしあなたがいま、人並み以上だと思っているならそれは健康な証拠です。
人間の脳は、健康な時には自分を過大評価するようにできているので、自分は人より仕事ができるとか、人よりモテるとか、締め切り近いけどうまくいくとか、今年は~万円貯金する!・・・そうした思考がすぐ沸くのは健康だからです。
人間の脳は基本的に身の程知らずで、計画が甘く、楽観的で過大評価ぎみです(笑)
言い換えれば、人間は元気がないときは現実の自分の能力を正確に捉えています。
だとすれば、私の存在はポジティブな限りで他人の中に存在します。
大半の人間はポジティブで前向きな人間関係を求めています。
他人に「希望を見たい」のです。自分の心に区切りや整理をつけたいのです。
人は一時的にはネガティブな所にとどまることはできますが、ずっとネガティブだとうつ病とかになるので、基本的には前向きな方向に行きたいのです。
君のためではない、我々のためだ。
もし私が「我々のため」にならない振る舞いをすれば、その関係は長続きしないでしょう。
ポジティブな反応を求めている相手にネガティブな反応をすれば、他人は去っていくか自分を変えようとしてくるでしょう。その逆も然り。
私がこのブログでネガティブなことを書きまくれば、ポジティブな人は去っていき、ネガティブな人が集まるかもしれません(笑)
結論に入ります。
人間は基本的に前向きな関係を求めています。自分はその限りで他人を求め、他人もまたその限りで自分を求めますが、なんでもかんでも「我々のため」に生きなくていいと思いました。
私が前向きに生きたいときに、他人もまたそれを望んでいれば私はそのように行動します。
けれど、相手が自分を変えようとしてしつこく迫ってくるときは、その人から可能な限り離れます。
自分にとっての前向きと他人にとっての前向きが違うときもありますから。
また、ネガティブな悩みや愚痴は人が前向きに生きるために必要なときもあります。そうしたときは、その人から離れるのではなく、変えようとするのでもなく、ただ傍にいるだけがいいでしょう。
そういえば、オッペンハイマーの妻は何度もオッペンハイマーに「戦いなさい」と言っていました。
それは、私のために変わって、私を前向きにさせてくれということでしょう。
人間は自分が快を得るために他人を求め、そうなるように変えようとしてきます。
しかし、大切な誰かや世間のために生きたくても生きられないときや、そうした期待に応えたくないときもあります。
正直、私はスマホを持ちたくありません。
けれど、世間はスマホなしでは生きていけない、オンライン社会に向かわせてきます。
「我々のために」、私を変わらざるを得ない状況に追い込んできます。
政府のマイナンバーカードもその典型ですね。
社会は私をスマホを持たざるを得ない人間にしてきます。
我々のためにスマホを持てと。オンラインであれと。
私はネットに無駄な時間を費やしている自分が嫌いです。
YouTubeやLINEを必要以上に触っている自分が嫌いです。
私は「スマホがあること」で社会生活もままならないほど辛くなったとき、スマホを手放すと思います。
もしかしたら、近々そうするかもしれません。
それは最終的には、自分のためにも、他人や社会のためにもなりそうな気がします。
いやー、長くなりました。
ここまでの長文を書かせたぐらいですから、私はクリストファーノーランの映画と相性が良いようです。
ぜひあなたも観てきてください。
そして、あなたはこの映画をどんなふうに解釈したか、よければコメントください。
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